ぴっつぁー大学留学記/Pitzer College blog🌵

アメリカの大学に進学して感じたことを率直に記録していくブログです

最恐都市?ヨハネスブルグに一か月住んでみた (2)魅力編

こんにちは~リコです。

ボツワナに来てもう二週間ほどが経ちました。もう研究期間の半分くらいが終わったんですか…?研究全然進んでなくて焦ってます。そもそも10ページ以上のレポートなんて書いたことないのに、20ページのレポート一本、なんの研究もやったことない学部生にやらせるのは無理があるんじゃと思いますが、やるって言っちゃったから明日から頑張ろ!

今日はヨハネスブルグの魅力についての話です。前回は治安についてネガティブなことを多く書いたので、今回はポジティブな側面にフォーカスして書いてみようと思います~

 

〈メモ〉

・本人…Pitzer大学の3年生。留学制度を利用してボツワナ南アフリカに留学してるよ

・この記事の頃には南アフリカヨハネスブルグにホームステイしていたよ

・みんな/友達…一緒に留学してる9人。Pitzer含め色んな大学から来てる。わたし以外全員アメリカ人。

ヨハネスブルグヴィッツ大学で授業を受けているよ

 

物質的な豊かさ

1番最初にこれを挙げるのも、なんか表層的でどうかなと思ったんですが、世間一般にある「アフリカ」のイメージといい意味で一番かけ離れているのはこれかなあと思って最初に持ってきました。

南アフリカはアフリカ大陸一の経済圏を誇るだけあって、ボツワナから行ったから余計に感じるのもあるかもしれませんが、とにかく物に溢れています。

ヨハネスブルグの都市部では、よくメディアで報道されているアフリカの「飢餓」や「戦争」、「欠乏」などとは正反対な世界が広がっています。(もちろんバラック小屋がぎっしり立っている場所もありますが…)

大きなショッピングモール、ぎゅうぎゅうに並ぶ衣料品店や食料品店、なんでも揃うスーパー…

よさげなお店でご飯を食べると150ランドくらいするのですが、1ランドが大体10円なので1500円くらい…洋服も、安くて250ランド=2500円くらい。物価も思っていたほど安くありませんでした。

 

街にはイギリス系の銀行やお店が並び、大きなモールやスーパーに行けば、アメリカで売っているものとほぼ変わらないものが売っています。ビーガン向けのチーズやお肉、最新の調理器具、海外から輸入されたらしい調味料…

建っている家も、まるでアメリカに建っているような家が多く並んでいて、ボツワナとは全く違った景色です。

 

オランダやイギリスなどいろんな国に植民地化され、中華系やインド系が労働者として連れてこられた歴史があるので、街も多様なバックグラウンドの人が多くいるなと感じます。

レストランも、南アフリカ料理、中華料理、インド料理、エチオピア料理など様々な国のものが食べられます。ちゃんとした日本食はなかったけど…泣

 

多様性が高い

多様性が高いところをもうちょっと掘り下げて書いてみます。

さっきも書いたように、南アフリカは白人や黒人だけでなく、アジア系の人もそこそこ住んでいます。インド系が全人口の10%ほどで白人より多いのは知ったとき驚きました。

それもあってか、テレビでもインド系のTVドラマ、中華系の映画のCM、など様々なものが見られて面白いです。

 

また、ヨハネスブルグには南アフリカ有数規模のチャイナタウンがあり、食材を買い出しがてら二回ほど行きました。巨大な門があったり滅多に見かけないタピオカ屋さんがあったり、いくつか日本の製品も売っていたりして、テンションが爆上がりました。

めちゃくちゃでかくて綺麗な門

昼間だったので人は少ない

品揃えはしっかり中華で、ほぼ何を言っているかはわかんない

野菜を買ったスーパー。おばさんから嬉々として話しかけられたが、わからなくて申し訳なかった…

ここで買ったお米とゴールデンカレーでカレーを作ったら、ホストファミリーに結構喜んでもらえました。よかったよかった

ホストファミリーは今まで何回もこのプログラムから生徒をホストしてるそうだけどアジア系の生徒をホストするのは初めてみたいで、「これ何?」とあらゆるものを見て驚いてる姿は新鮮でした。

あと面白かったのが、ホストマザーが韓流ドラマの大大大ファンで、家にいるときは韓流ドラマか韓流リアリティーショーしか見てなかったこと。

その影響で、「チャミスル飲んでみたい!」「キムチ食べてみたい!」とはしゃいでいて、わたしが選んで二人で食べたのはいい思い出です。(ホストファザーとホストブラザーは辞退した)


また、「アフリカ大陸のセーフスペース」と言われているように、南アフリカではクィア、性的マイノリティーに対する空気もかなりオープンだなあという印象を受けます。

もちろん完全に偏見や差別がないわけではなく、街中でレズビアンカップルが手を繋いでいただけで刺されてしまったような悲しい事件も今でも多くあると聞きます。

それでも、ゲイ/レズビアンの人たちが集まるバーが多く存在したり、街中でプライドフラッグを見かけたり、大学でクィアの人たちを被写体にした小さな展示があったりと、クィアの権利をサポートする人たちはいることを生活のあちこちで感じられました。

 

文化の中心地

やはり大都市の一番と言ってもいい魅力は、文化の中心地であるところでしょう。ヨハネスブルグにいたころは毎週毎週イベントやすることがあり、美術館や博物館も多くあったので時間がいくらあっても足りないほどでした。

特に楽しかったのは2010年の南アフリカワールドカップで使われたアフリカ大陸一大きいスタジアムでサッカーを見てきたこと、ショートフィルムを観に行ったこと、博物館巡りをしたことです。

 

FNBスタジアムは10万人ほど入る観客席が満員で、観客全員で一体となって楽しむのは本当にお祭りのようでした。

いつもスポーツ観戦には興味がない自分でも、(ホストファミリーの)贔屓だったチームが負けても、めちゃくちゃ楽しかった思い出があります。

みんなでスタジアムの前で。それぞれ推しチームのユニフォームを着ている

これがスタジアム。広い!!!!

博物館はいつかの記事でも書きましたが、アパルトヘイトミュージアムとオリジン・センターが特におすすめです。

 

オリジン・センターは写真が撮れなかったのが残念だったのですが、先住民族のサンの人達が描いた壁画が地下にズラァァァと並んでて、それはそれはもう圧巻でした。

さいころ考古学者になることを一瞬夢見た人なら、よだれが出るほど楽しいと思います。

ここ以外にも、行きたかったけど行けなかった美術館がたくさんあって残念でした。

 

こんな感じで今回はヨハネスブルグの魅力について語ってみました。怖い!危険!だけじゃない、ヨハネスブルグの魅力を少しでもシェア出来たら嬉しいです。

私も一か月半いただけなのでこれからもっともっと知って行ければなあ~と思っています。

 

それじゃ読んでくれてありがとう!また次の記事で!

最恐都市?ヨハネスブルグに一か月住んでみた (1)治安について

こんにちは~リコです。最近もうほんと暑いんですよね…自分は今ボツワナにいるんですが、連日最高気温が38℃とかの中、冷房も扇風機もない中生活しています。

ホストファミリーは体が慣れているのか「暑いね~」とか言いながらも平気そうなんですが、温帯気候出身のわたしはそろそろ内臓がモツ煮込みになってしまいそうです…

 

さて、今回は、ヨハネスブルグに住んでいた頃の体験について書いていこうかなと思います。

ヨハネスブルグについて調べると、「世界最大の犯罪都市」だったり「世界一治安の悪い国の首都」だったりいろんな情報が出てくるけど、実際生活してみてどうなの?そんなに危ないの?ということについて、自分の経験を基に書いていこうと思います。

 

〈メモ〉

・本人…Pitzer大学の3年生。留学制度を利用してボツワナ南アフリカに留学してるよ

・この記事の頃には南アフリカヨハネスブルグにホームステイしていたよ

・みんな/友達…一緒に留学してる9人。Pitzer含め色んな大学から来てる。わたし以外全員アメリカ人。

ヨハネスブルグヴィッツ大学で授業を受けているよ

 

住んでいた場所:ソウェト

わたしたちがホームステイしていた場所は、ヨハネスブルグ中心部から少し離れたソウェトと呼ばれるエリアでした。ソウェトの様々なエリアにある家庭に、9人それぞれ違うおうちにステイさせてもらってました。

点線で囲まれた部分がソウェト。ヨハネスブルグの西側にあるよ

水色のスポットが、みんながホームステイしていたおうちを示したものです。オレンジの丸で囲ってあるのがわたしのホストファミリーでした。

引きで見るとこんな感じ。

ヨハネスブルグは全体で言うとここにあります。

ざっくりソウェトの歴史(興味ない人や知ってる人は読み飛ばしてね)

ソウェトは英語だとSowetoと書き、South Western Townshipの頭文字を取ってそう呼ばれるようになったと言われています。

アパルトヘイト政策時代、ボーア人・イギリス人などのマイノリティ白人政権が南アフリカを白人の国と黒人の国として分けようとしたときの非白人強制移住政策の一環として作られた都市です。

当時南アフリカには白人以外には、先住民の黒人、インド系、中華系、そして様々な人種のミックスの人たちが住んでいました。

しかし、白人政権は都市に近い土地を白人の居住区に設定し、都市から遠い郊外の狭い土地を白人以外(主に黒人)の居住区と定め、何万もの非白人たちを強制移住させました。

 

そうして移動させられたときに作られた居住区を「タウンシップ」と呼ぶんだそうです。

ソウェトはそうしたタウンシップでも南アフリカ最大のものであり、面積は138平方キロにもなります。

東京23区が627平方キロなので、23区の1/4弱ものサイズということになります。広い…

当時非白人は不動産の所有や、認められた土地以外に住むことが許されていませんでした。

たくさんの血が流され、大勢の人の努力があって差別的なアパルトヘイトはすべて廃止されましたが、それでも白人の土地の独占の問題や、企業の利権を白人が握っているなどの問題は解決されないままです。

 

まだまだ残る人種隔離の影響

人種隔離の歴史があるソウェトは、法律が撤廃された後も人種のすみわけが非常に強く残っているなと感じました。

近所を歩いていても白人は全く見かけないし、住んでいるのは黒人の人が大半です。

ヨハネスブルグでもサントンなどの高級住宅街に行けば、白人やお金持ちの中国人、駐在の日本人などを見かけますが、ソウェトなどのタウンシップでは見かけるのはほぼ黒人の人たちだけです。

けれど、ソウェトと一口に言っても、様々なエリアがあります。私たちが生活していたのは比較的裕福なエリアでしたが、ソウェトの中でもクリップタウンなどに行くとトタン小屋が立ち並び、電気もガスもないような家が立ち並ぶエリアがあります。

わたしたちが2週間インターンしていたNGOはクリップタウンの孤児院・ユースセンターだったので、そこでの経験もいつか書きたいです。

実際暮らしてみてどうだった?

ソウェトはヨハネスブルグのなかでも、特に危険な場所として認識されているようです。

ボツワナでも南アフリカでも、これからソウェトに行く/ソウェトに住んでいると言うと「ソウェト!?なんで!?」「えーっ絶対やめた方がいいよ!」「危なすぎる!!」と何度も言われました。

そして実際住んでみて、地域の治安が悪いというのはひしひしと感じました。わたしたちが住んでいたエリアでは、どの家にも、鋭いトゲのついたフェンスや塀があり、それにさらに鉄条網が張り巡らされていたり、お金持ちの家だと電気フェンスがつけてあったりしました。

どのドアや窓にもたいてい鉄格子が取り付けてあり、ドアは開閉する鉄格子とドアの二重に防犯する仕組みでした。

大抵どの家でも防犯目的で中~大型犬を飼っていて、10頭近い犬を飼っているおうちもありました。

夜、自分の部屋にいると急に何かが相次いで破裂するような音が聞こえ、家族に今のは何か聞くと「銃声だね」とあっさり言われることもありました。

 

さらに、東アジア人はかなり目立つなとも感じました。サントンなどの高級住宅街に行けば別ですが、その他のエリアでは東アジア人はほぼ見かけませんでした。

都市部を一人で歩いていると、エリアによってはつきまとわれたり、しつこく話しかけられたり、酔っ払い or 何らかの物質でハイになってる人に絡まれたりするので、徒歩で移動するのにはかなり神経を削られました。

しかも、絡んでくる人はほぼほぼ20-50代男性なので、小柄で力もない自分は常にびくびくしていましたが、幸い物を盗られたりしたことはありませんでした。

外国人と一目でわかってしまうとお金を持っていると思われて強盗にあう可能性が高くなるので、複数人で歩くなどしっかり対策が必要だと思います。

ただ、私の周りで何人も「友達といたのにスマホをひったくられたんだって」とか「信号待ちをしてたら窓を割られて強盗にあった」とか、そういう話を聞いていたので、私は本当に運が良かったんだと思います。

 

けれど、結論から言うと、1か月半の中で危ない思いをしたことはありませんでした。ホストファミリーやプログラムディレクターから言われることをちゃんと守っていたのと、さまざまな人たちの助けと、それから単純に運が良かったおかげだと思います。

気をつけるように言われていたことは

スマホを手に持ったまま歩かない(ひったくられるから)

・一人で外出しない

・荷物は肌身離さず持ち歩く

・電気が止まっている間は外出しない

・公共交通機関は使わない

 

また、友達はアメリカの治安の悪い都市と治安はそう大差ない、とも言っていました。アメリカでは銃乱射事件は毎週のように起きているし、その子はシカゴ出身で、シカゴに比べて特段治安が悪いようには感じなかったそうです。

 

下に、ヨハネスブルグで1年ほど働いていた駐在員さんの面白い記事を見つけたので貼っておきます。ここに書かれているような犯罪も起こるよ、だから気を付けてね、と色々な人から注意してもらったおかげでリスクを回避することができたのだと思っています。

結論:犯罪は起きているし、外国人は狙われやすいのでしっかりリスク対策をすることが必要。けどヨハネスブルグにも普通に人が住んでいるし、足を踏み入れたら即殺されるわけでもない。

 

今回の記事ではヨハネスブルグに住むということについていろいろ書いてみましたが、南アフリカの経済・文化の中心地ということもあって、魅力にあふれた都市です。ヨハネスブルグの多文化的で刺激的な側面についても今度書けたらいいな~と思っています。

 

読んでくれてありがとうございました、また次の記事で!

 

 

 

globe.asahi.com

10/11 ヨハネスブルグ観光!アパルトヘイト博物館とかに行ってきたよ

みなさんこんにちは!リコです~

最近は日本はもう寒いんですかね?こっちは最近ボツワナに帰り、連日最高気温38度の中、クーラーも扇風機もない中耐えてます…夜寝るときも30度くらいあるのがまじでしんどいです。窓を開けようものなら蚊の大群にぼこぼこにされるし…

 

まあそれはおいといて、今日は南アフリカ最大の都市!ヨハネスブルグ観光に行ってきたお話です~

 

〈メモ〉

・本人…Pitzer大学の3年生。留学制度を利用してボツワナ南アフリカに留学してるよ

・この記事の頃には南アフリカヨハネスブルグにホームステイしていたよ

・みんな/友達…一緒に留学してる9人。Pitzer含め色んな大学から来てる。わたし以外全員アメリカ人。

ヨハネスブルグヴィッツ大学で授業を受けているよ

 

南アフリカの首都プレトリアから電車で1時間、アフリカ大陸1の人口を誇るヨハネスブルグは、他の都市とは活気も経済の規模も犯罪件数も段違い!常に何かが起こっている経済と文化の中心なのです!

 

メディアの描き方で、「犯罪都市」とか「最恐都市」みたいなイメージがはちゃめちゃに強いけど、実際にそこに人は住んでいるし、通りを歩いたら身ぐるみはがされるわけでもないし、シカゴ出身の友達が「シカゴの方がよっぽど危ないわ」っていうくらいです。

もちろんコーディネーターさんやホストファミリーの尽力のおかげだし、わたしたちがたまたま運が良かったのかもしれないけど、私の経験からでは、一般に言われているくらい怖がらなくてもよかったよということです。

これについてはまた書きたいな~

 

今回の記事では、ヨハネスブルグの中でも商業施設や都市部からはやや離れた、ソウェト地区を観光した時の話を書きます。

なぜソウェトかというと、1913年から70年近く少数白人政権によって行われていたアパルトヘイト(人種隔離政策)の戦いの中心地だったからです。

 

アパルトヘイト自体については、この記事がわかりやすいので興味ある人は読んでみてください~ja.wikipedia.org

rekisiru.com

 

ソウェトはsowetoと書き、South Western Townshipの頭文字を取ってこう名付けられたんだそうです。

アパルトヘイトの一環で住居隔離政策が進められたとき、黒人・有色人種を住んでいた土地から無理矢理追い出し、ソウェトを代表するような都市の中心から遠く離れたタウンシップに住まわせた過程で作られた居住区です。

活動家や政治家、そうでない多くの普通の人たちもソウェトで戦い、アパルトヘイト撤廃を訴えていったのでした。

かの有名な初代黒人大統領のネルソン・マンデラノーベル平和賞を受賞したデズモンド・トゥトゥ牧師もソウェト出身です。

 

今回の観光では、ネルソン・マンデラが昔住んでいた家を訪ねることもできました。

当時白人以外は不動産の所有が認められておらず、みんな政府から家を借りて暮らしていたので、家は思ったよりとても小さく質素でした。

仲はマンデラの肖像や、彼が獄中から書いた手紙などが飾られていた

マンデラの奥さん」という側面しか語られてこないがちだけど、実際は生涯アパルトヘイトや不平等撤廃のために戦った活動家だったウィニーマンデラの胸像も飾られていた

南アフリカ初の黒人大統領になり、アパルトヘイトを終わらせるという偉業を成し遂げたネルソン・マンデラの家は、彼の肖像や彼が獄中で書いた手紙、色々な機関から送られた表彰状、彼が生前使っていた家具などが展示されていました。

家が小さいこともあってそんなにボリュームはないので、がっつり展示を見たい方はアパルトヘイト博物館もおすすめです。

ミサの最中に警察が踏み込んで実弾が発砲され、子供たちが何人も犠牲になった教会にも見学に行きました。

1枚目は黒人の聖母の絵画で、現物はとても大きくて目の前に立つと圧倒されるような気持になりました。

ヘクター・ピーターソン博物館にも行きました。

ヘクター・ピータ-ソンとは写真で腕に抱かれている男の子の名前で、ソウェトで学生蜂起があった際の一番最初の犠牲者と言われています。

彼の名をつけられた博物館には、学生運動や運動で犠牲になった方々の歴史が写真や動画などの豊富な資料で展示されていました。おすすめです。

 

最後に、アパルトヘイト博物館の観光したんですが・・・ボリュームがすごい!!!この日はトータルで2時間ほどしか時間がなくて、とてもじゃないけど回り切れませんでした。

体感としては2時間半で全体の30%が精一杯という感じ。

アパルトヘイト博物館名物、チケットでランダムに人種が割り振られて人種ごとに入口が用意されてる仕掛け アパルトヘイト時代の隔離政策を体験できる

写真、動画、実物などめちゃくちゃ展示の見ごたえがあり、後日友達ともう一度行って回り直したくらいです。

アパルトヘイト時代の歴史について学べるのはもちろん、その時代に実際に使われていた銃などの現物が展示されていたり、巨大スクリーンで延々と当時の市民が撮った警察が実弾を発砲する映像が流れているブースがあったり、とにかくすごかったです。

めちゃくちゃおすすめします。

 

こんな感じで他にも色々周り、たっぷりアパルトヘイト闘争の歴史を学べて大満足でした。ソウェトがどんな街かについてもまた書きたいな

 

それでは、ここまで読んでくれてありがとう~また次の記事で!

10/6 南アフリカの首都、プレトリア観光!

今日は南アフリカの首都プレトリアの観光日記だよ~

プレトリアには5日間くらいいたんだけど、うち3日間は食中毒で死んでたので最終日2日の話です~

Freedom Parkの丘の上からはプレトリアが見渡せる。大都市!!!

南アフリカの首都、プレトリアってどんな都市?

プレトリアの第一印象は、まじで都市。大都市。ボツワナの田舎から急に都市に出てきたからって言うのもあると思うけど。

人や建物の密度とか徒歩圏内での選択肢の広さで言ったらほんと東京、バンコクみたいな感じを受けた。

Nandos(ナンドースっていう現地のファストフードチェーン)、マック、バーガーキング、カフェ、KFC、チェーンの種類だけ見たらほんとにアメリカみたいな感じ。

さすがアフリカ大陸一の経済規模を誇る、南アフリカの首都だけはある。

 

歩いてる人も多様で、黒人が大半なんだけど、インド系、白人、東アジア系、ほんとに様々。

何より、歩いてるだけで道のあるとあらゆる人間からじろじろ見られなくて済むことのありがたさ。視線を感じずに済むのはありがたい。

 

南アフリカで心配なこととしては、計画停電があること。電力供給のひっ迫具合によって1日に2時間~4時間ほどの停電があり、本当にひどいときは1日に8時間も電気が使えないときがあるらしい。

計画停電に備えて、大きなお店やモール、公共施設にはジェネレーターという小型の発電装備が置いてあることもある。

プレトリアではも大体の店舗にはバックアップ電源があるらしく、深夜まで明るくて騒がしい。

大体のお店も夜まで空いている。プログラムディレクターも、ここなら一人で出歩いても夜でも大丈夫だと太鼓判を押してた。まあ結局一人でそんなに歩いたりしてないけど。

 

そういえばタクシー乗ってて思ったけど、南アフリカでは多様な人種が暮らしてる分、セグレゲーションがほんとにすごい。

やっぱり白人が溜まってるお店、黒人ばっかりのお店、はっきり分かれてる。サービス業は黒人ばっかり、医者とかのホワイトカラーは白人、アフリカーナーばっかり。

住んでいるところも、豪奢な建物が並ぶかと思えば、バラック小屋にトタン屋根の建物が折り重なるようになっているところもある。有名な観光地のすぐ隣ですら、バラック小屋ばかりがひしめき合っていた。

こんなにひどい経済格差だとは思わなかった…。

 

Freedom Park観光

6日はfreedom parkに行く。南アフリカの歴史についての博物館。みんなはわたしが食中毒で死んでる間に行ってきたから一人で行ってきたけど、ほんとに行ってよかった。

クリエイティブな展示方法と圧倒的な展示品の数々に圧倒されてしまった。

植民地化の歴史から抑圧の歴史、ネルソンマンデラが当選するまでの流れでは思わず涙してしまった。南アフリカに来た人にはみんなめちゃくちゃおすすめしたい。

奴隷貿易の悲惨な歴史を立体的なワイヤーアートで表現した展示。目の前に立つとスケールの大きさに圧倒される

白人が植民地化当時、使っていた品々がガラスにぎちぎちに詰められて写真と一緒に展示されている 実際に見るともっと迫力があります

ネルソンマンデラが当選するまでの長い闘いを描いたコーナー 戦いには彼の27年間の投獄期間も含まれている

マンデラがサインした国旗!

 

ただ、びっくりしたのが、こんなにクオリティが高くて魅力的な美術館なのに、私以外お客が一人もいなかったこと。え、どういうこと???

 

帰り際にUberを待っていると、4人組の大学生に「どこから来たの?」と話しかけてもらった。彼らは全員プレトリアの大学に通っていて、エンジニアを学んでいるとのこと。

南アフリカには12の公用語があるので、何語を喋るの?と聞いたら、彼らのうち一人が一人を指さし、"He is coconut" ってにやにやしている。

どうやら、「英語しか喋らない黒人」を指して、「外側は黒だが中身は白いこと」をココナッツと呼ぶらしい。面白。

二人はソト語、二人は少しセツワナ語も喋るらしい。

 

アメリカでの大学生活やここでの話、など色々話せて楽しかった。そのあとはUberでぶーんと帰ってきて夕飯を中華料理屋さんで食べ、部屋に帰ってきてパッキング、シャワー、メール。明日にはホストファミリーに会う。

 

今日はこんな感じ!読んでくれてありがとう、また次の記事でね~

最恐都市?ヨハネスブルグに一か月住んでみた(序)

こんにちはお久しぶりです!!リコです。

 

ボツワナにいたころはあんなに更新できていたのに、南アフリカに着いた途端、大忙しで全然更新できませんでした…ブログって難しい

この一か月間は食中毒になったり、ヨハネスブルグのホストファミリーに会ったり、大学で授業を受けまくったりと本当に濃い一か月でした。いろんなことについてこれからぼちぼち書いていけたらと思います。

ヨハネスブルグの空港で。早速中国語の文字が目立つ

南アフリカでのスケジュールは、

・10/2~10/7 プレトリアで一週間の研修

・10/8~10/31 ヴィッツウォーターズランド大学で授業を受けつつ、ヨハネスブルグでホームステイ

・11/2~11/5 ケープタウン観光

・11/6~11/17 ヨハネスブルグNGOでボランティア

 

こんな感じでした。

 

プレトリアで食中毒

プレトリアにいた時は、体が痙攣して水も飲めないレベルという人生で最悪の食中毒になり、メンタルまでやられました。

吐きまくって自分で座ることもできなくなって、バナナやリンゴを少し食べ、吐かないようになんとかベッドに横たわってひたすら寝る状態が三日間くらい続きました。

 

ほんとに死ぬかと思った中で、OS-1のありがたさが身に沁みました。あんなに美味しい食塩水無いですマジで。

同室だったドイツ人の友達が気遣って似たようなやつをくれましたが、申し訳ないけど痙攣しながらスーツケースひっくり返してOS-1作ったくらいまずかったです。

 

海外旅行に行く人、現地での食生活に不安がある方は持って行って損はないと思います。パウダータイプがかさばらないのでおすすめです。👇

www.otsuka-plus1.com

 

ヨハネスブルグで大学に通ったよ

ヨハネスブルグではソウェトというタウンシップのホストファミリーにステイしていました。

みんなソウェトのばらばらのエリアにホームステイしているのですが、公共交通機関が安全性やコストの問題で使えず、ヴィッツ大学に通うときは一人一人の家をミニバンで回ってピックアップするという手段で通いました。

 

ホストファミリーの家からヴィッツ大学までは、普通に走れば35分ほど。

けど、みんなの家々を回るため回り道するのと、朝のひどい渋滞が加わって、毎日片道2時間以上かけて通ってました。

 

朝9時から始まる授業のために、渋滞に巻き込まれたことを考えて8時に着くので、毎朝5時起きの生活。

授業が終わって家に帰るころには18時を過ぎており、慌ててご飯食べてシャワー浴びて、ホストファミリーと話してリーディングをやって…としていたらあっという間に寝る時間です。

 

それに加えて3本のレポート、来月から始まるISP(Independent Study Project)(自由研究?)の下調べなど、とにかく睡眠を削らないとするべきことも終わらず、正直メンタルばちばち病んでました。

 

睡眠削るとあっという間に病むんだね…ってことを実感しました。みんなもちゃんと寝ようね!

 

今この記事が書けているのは、NGOで働いていることでリーディングの必要がなくなったのと、NGOが家から全然近いので朝7時に起きる健康生活ができているからです。ヤッター!!

今日はこんな感じで終わりますが、次からは具体的にどんなことをしたかを書いていけたらいいなと思います~

 

読んでくれてありがとう!また次の記事で!

 

 

 

 

 

 

9/20 仕立て屋さんでワンピースをお願いしてきたよ👗

〈メモ〉

・本人…Pitzer大学の3年生。留学制度を利用してボツワナ南アフリカに留学してるよ

・ハボローネ…ボツワナの首都。わたしはそこから1時間くらい離れたマニャーナ村に住んでる

・ホストファミリー…ホストマザー、30代のホストシスター、ホストブラザーの3人のおうちにステイしてる

・みんな/友達…一緒に留学してる9人。Pitzer含め色んな大学から来てる。わたし以外全員アメリカ人。

・今はNkaikela Youth Group(ンカイケラ・ユース・グループ)というNGOでみんなでインターンしているよ

 

起きて、体調不良だったのでインターンはお休み。ひたすら気持ちが悪く、ベッドから起き上がれない。ここ数日の疲れが溜まってしまったのかな…と考える。

 

家ではホストマザー、ホストシスターも出かけてしまって一人なので、自分で日本から持ってきたインスタントスープを作る。

成田の無印良品で買った豚汁。これがもう疲れた体には美味しくて美味しくて、美味しすぎてちょっと泣けてしまったくらい。

フリーズドライなんだけどしっかり豚肉の甘みと色んな野菜のコクがあって、生姜のさわやかさが全体を締めてる。

海外勢はもちろん、忙しい人にも是非お勧めしたい。ちょっと高いけど、ちゃんと作った豚汁かなってくらい美味しい。

 

ステマじゃないよ。ないけど、このおいしさを是非みんなにも味わってほしい…

www.muji.com

 

そのあと昼寝して、午後は少し体調が良くなったのでホストマザーと一緒にマンコディの仕立て屋さんに行く。

この前ハボローネの布屋さんでボツワナの伝統的な布、ジャーマンプリントを買ったので洋服に仕立ててもらう予定だ。

ジャーマンプリントを買った会はこちら↓

t.co

マンコディはマニャーナから車で10分くらいの村で、そこにホストファミリー御用達の仕立て屋さんがあるんだそうだ。

 

仕立て屋さんについてどんなデザインがいいかを伝えると、写真を見せるように言われ、写真をシェアし、デザイン図(簡単だけど)を渡す。

まじでざっくりしているけど、ノースリーブでフリルがアシメになっているワンピースのつもりだ。

 

仕立て屋さんの小さな部屋の中では、2台の足踏みミシンと平台、二台のトルソー、布が至る所に積み上がったり吊り下げられたりしている。

一人のお兄さんはミシンでまさに服を縫っている最中だ。

もう一人のお兄さんとホストマザーが何か話し込んでいる。

デザイン図を伝え、てきぱきと採寸をしてもらう。ざっと見積もりをし、ファスナーの有無や裏地の有無を聞かれる。

 

ワンピースとズボンで450プラ、大体4500円くらい。布を持ち込んだとはいえ、オーダーメイドで作ってもらうには破格の値段だ。来週の火曜日に二着とも縫いあがるらしい。楽しみだ!

 

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はい!時間を進めて、次の火曜日に取りに来たよ!出来上がりはなんと…

ホストシスターに取ってもらったらめっちゃ指入っとる~

あれ!?????思ってたのと全然違う????

わたしはノースリーブのワンピースをイメージしてたんだけど、どうやらノースリーブを完全にノーストラップだと解釈したらしい。

あと、エストがめちゃくちゃきつい。成人式の前撮りを思い出したくらい、一番上まで閉めると深呼吸ができない。

ホストマザーは「洗えば伸びるよ~」って笑ってたけど、普通逆じゃない?大丈夫かな??

まあこれはこれでとっても素敵なドレスでとても嬉しい…

 

今日はこんな感じ!今回も読んでくれてありがと!また次の記事でね!

9/19 ボツワナで停電したけどホストファミリーのおかげで全然乗り切れた話

お久しぶりです~!リコです。

最近プログラムのボツワナのパートが終わり、10月からは南アフリカで残り3分の2つ目のプログラムが始まります。

ホスファミに別れを告げたり、南アフリカへ飛んだり着いて早々食中毒になったりと、色々バタバタしてたけどできるときに書いていくよ~

 

今日はマニャーナ村に嵐が来て停電になったときのお話!

 

〈メモ〉

・本人…Pitzer大学の3年生。留学制度を利用してボツワナ南アフリカに留学してるよ

・ハボローネ…ボツワナの首都。わたしはそこから1時間くらい離れたマニャーナ村に住んでる

・ホストファミリー…ホストマザー、30代のホストシスター、ホストブラザーの3人のおうちにステイしてる

・みんな/友達…一緒に留学してる9人。Pitzer含め色んな大学から来てる。わたし以外全員アメリカ人。

 

チョベへの5日間の修学旅行から帰ってきた後は、Nkaikela Youth Group(ンカイケラ・ユース・グループ)というNGOでみんなでインターンしているよ。

HIV/AIDsの影響を受けている女性たちやセックスワーカーを支援している団体で、NGOが第一線でどのような仕事をしているかを、学ばせてもらえることになったのだ。

よかったら彼女らのサイトものぞいてみてね👇

www.nyg.org.bw

オフィスはハボローネにあるのでみんなで朝、バスに乗ってオフィスまで行く。

初日は仕事内容の説明や事務所の案内、仕事を取りかかったところで時間になったのでみんなで帰宅する。

 

寄るところがあったので、遅くなっちゃったな、と思いながらみんなでバスで村まで帰っていた。

そしたら突然空がにわかに暗くなり、びゅううう、と風が強くなり、あっという間にバンは砂嵐に飲み込まれた…

暗くてはっきりしないけど、砂塵がもうもうと吹き荒れていた

バンの窓から砂が吹き込み、慌ててみんなで窓を閉める。ただでさえ道は街灯が少なくて暗いのに、砂でさらに視界が悪くなる。

 

と思ったら、あっという間に大粒の雨が降ってきた。

ボツワナに来て1度も雨が降ったのを見たことがなかったのに、突然ゲリラ豪雨のような猛烈な雨が降ってきた。

なんてこった、とみんなで車内で顔を見合わせる。

 

びかびか!!と雷も鳴るようになってきた。

バンは原野の中に舗装された一本道を走ってるので、陽が沈むと道は真っ暗だ。

街灯もほぼない。そんな中、稲妻だけが頭の上で轟きながら一瞬だけあたりを照らす。

灯りがないと、雷はこんなにも明るいものらしい。

猛烈な勢いで光る雷はホラー映画の演出そのものだった

さっきまでざわざわ興奮していたみんなも、もう静かになっている。

わたしはちょっと怖くなりながら、村まで無事に帰れますように、と祈る。

 

家にようやっと着くと、ホストマザーがパラフィンランプに火をつけている。どうやら停電したらしい。

「ちょうどパラフィンが少なかったから、明日買いに行こうと思ってたのにねえ」とため息をついている。

ボツワナでは停電はしょっちゅうで、そうなったときのために常にろうそくやパラフィンランプが置いてある。

パラフィンランプとろうそくを家中に置いて回る。

 

わたしの勉強机。灯りと言っても限られた明るさだ

部屋の全体像はこんな感じ。

停電に加え、途中から電波もふっつりと通じなくなる。

ホストマザーとシスターが暗い中パラフィンランプで料理してくれた夕飯を食べて、2個目のレポートに向けてホストマザーにインタビュー。

各部屋にろうそくかランプが一つずつ。

スマホもパソコンも充電できず、電波がないのですることもない。

けど、準備をしてくれていたり暗い中でも料理をしてくれたホストファミリーのおかげで、ことさらに不自由を感じることなく過ごすことができたのは本当に感謝しなければいけないと思う。

外では雨や嵐がいまだ吹き荒れている。家全体ががたんごとんと揺れる中で、真っ暗な中でシャワーを浴びて早めに寝る。おやすみなさい。

 

 

今、中の人は南アフリカに来たばっかりでまた1週間くらいは書けないことが予想されてるけど、書けるときに書いてきます~

今回も読んでくれてありがと!また次の記事でもよろしく!